ホーム出版物創立者の「文明間対話」シリーズ東洋の智慧を語る

『東洋の智慧を語る』トピックス

創立者が、季羨林博士の人生をつづる

創立者・池田大作SGI会長は、『東洋の智慧を語る』の出版を記念して、季羨林博士の人生の歩みと、博士との交友の模様を、人物エッセイシリーズ「人生は素晴らしい」の一篇としてつづった。

(※聖教新聞2002年10月14日付より転載)

「人間国宝」の大師

季羨林先生は、御年91歳。

中国の「人間国宝」というべき大学者であられる。

北京大学の創立百周年の佳節には、江沢民国家主席が季先生を訪問し、「長い間、雷鳴が轟くような季先生の御高名を聞いてまいりましたが、きょう、先生にお会いできたことは、私の永遠の幸いです」と敬意を表されたことも有名である。1998年のことだ。


しかも、季羨林先生は恵まれた環境で学問をされたのではない。何回もの飢えを乗り越え、戦乱を乗り越え、命にもおよぶ迫害を乗り越えて、生き抜き、生き抜いて、学問の高峰を、よじ登ってこられたのである。       


そして、よじ登る先生の胸の底には、ただひとつの面影――お母さんの姿があった。

「私の家は、極貧の中でも極貧でした。貧しい村の中でも一番の貧しさでした。食べるにもこと欠いたのです。父は、人の棗(なつめ)林に行っては、落ちている棗を拾って飢えをしのぐありさまでした。こんな父が意外にも結婚できたのは、母の実家も、それに見合うほど貧しかったからです。ですから、もちろん母が学校に行くゆとりなどありません。母は、文字を一字も読めませんでした。一生、自分の名前さえ書けなかったのです」

母堂とともにあった日々

季先生のお生まれは1911年。清王朝が倒れて、中華民国ができる5カ月前であった。先生は清朝時代のお生まれなのである!

山東省の清平県(今は臨清市の一部)官庄という地であった。

家の裏手には、芦の茂る池があった。池のほとりに柳の木があった。畑は、猫の額ほどもなかった。

村で食べていたものに「白いもの」と「黄色いもの」と「赤いもの」があった。

「白いもの」とは、小麦粉でできたもの。これは季家とは無縁であった。

「黄色いもの」は、粟粉とか、とうもろこし粉でつくったもち。これも、ほとんど縁がなかった。

最低の「赤いもの」は、赤いコーリャンのもちである。


「我が家では、いつも『赤いもの』でした。これは、まるで豚の肝のようであり、まずくて食べるのに骨が折れましたが、食べないと飢えてしまいます。私は、その後も『赤いもの』と聞くだけで気持ちが悪くなるほどでした。しかし、母は終生、ただ『赤いもの』だけを口にしていたのです。凶作の年になると、それすらも食べられず、野生の菜っぱを食べるしかありませんでした」


幼い季先生は、よその裕福な家の畑に行っては、「麦拾い」をさせてもらった。麦がすっかり刈り取られた後に、ちょっぴり落ち穂が残っている。それを時間をかけて、少しずつ拾い集めるのだ。5歳くらいの子どもでも、ひと夏かけて集めれば、それなりの量になった。

「母は、私へのほうびに、その麦をひいて粉にし、まんじゅうを蒸すか、もちを焼いてくれました。うれしくて、うれしくて、ぱくぱく、かぶりついたものです」


ある年のこと。いつもより、たくさんの麦が拾えた。中秋節(旧暦の8月15日)の日が来た。お母さんが、どこからもらったのか、「月餅」を手にしていた。

「ひとかけらもらった私は、石のそばに、かがんで、勢いよく食べ始めました。めったに口にできるものではありません。『龍の肝』や『鳳の肝』も及ばないほど貴重でした! 幼い私は、母が食べていたかどうか気にもとめませんでした。今、思えば、母は一口も食べていなかったのです。月餅だけではありません。ほかの『白いもの』があるときも、母は、一度も味わったことはなかったのです。全部、私のためにとっておいてくれたのです……」


そんなお母さんと、少年は、6歳の幼さで別れることになる。叔父さんを頼って、済南(山東省の省都)に移り、勉強することになったからである。以来、先生は、故郷に住むことはできなかった。

北京秋天の下で出会う

私が季先生に初めてお会いしたのは、北京大学を訪問した際である。4回目の訪問であった(1978年9月18日)。

大学内の美しい未名湖を望む「臨湖軒」で、副学長の季先生らが温かく迎えてくださった。ちょうど文化大革命という「10年の大惨禍」を終えたばかりの時期である。


文化大革命中に、季先生が、どれほど苦悶されたか。筆舌に尽くせぬ迫害があった。拷問。屈辱。強制労働。飢餓。暴行。貴重な研究資料も持ち去られた。自殺する寸前だったと、うかがっている。


しかし、この日、先生の顔は晴れやかであった。北京秋天――その青空のごとく澄んだ勝利の笑顔であった。質朴でご謙虚な人柄に、大学者ならではの、さわやかさがあった。

先生が「北京の一番いい季節である『金秋』にお迎えできて、私はとてもうれしいのです」と言ってくださったことを覚えている。お言葉の通り、黄金の銀杏の葉が、キャンパスのあちこちを輝かせ始めていた。

一枚の葉にも宇宙が見て

この北京に、季先生が初めて来られたのは、19歳の時。北京大学と並ぶ名門・清華大学に進学するためだった。最初の下宿に、大きな枸杞(くこ)の老樹があった。季青年は毎日、読書に疲れると、この木の下を歩いた。


近くに寄ると、多くの葉の上に緑の虫がはっていた。虫食いの穴も見えた。瑠璃色の斑点も見えた。斑点を見ていると、さまざまな連想がわいた。水彩画にも見えた。地図にも見えた。地図に見えると、ひとつの黒点は、母の待つ故郷になった。別の黒点は、かつて遊んだ湖や山に見えた。いや、そう見えただけでなく、この葉そのものが実際、ひとつの世界かもしれないではないか?

「この蒼々と茂った枸杞の樹は、わたくしの宇宙であった。否、この一枚の葉こそが、わが宇宙であった」(依田憙家訳『中国知識人の精神史』上巻、北樹出版)


私は、英国の詩人・ブレイクの有名な詩を思い出す。

「ひとつぶの砂にも世界を

 いちりんの野の花にも天国を見

 きみのたなごころに無限を

 そしてひとときのうちに永遠をとらえる」(寿岳文章訳)

 季先生の中学時代のあだ名は「詩人」だったという。

母へのひそかな誓い

やがて、この下宿から、清華大学のそばに移ったが、季青年は、早く大学を卒業したかった。就職して、お母さんを引き取り、いっしょに暮らしたかった。

6歳で別れてから、ほとんど会っていなかった。最後に会ったのは14、5歳のころ。写真すらなかった。お母さんには写真を撮る機会など一度もなかったのだ。

「私は、どうしても母の笑顔を思い出せないのです。母は一生、笑ったことがなかったと思います。家は貧しく、息子は遠く離れ、母は苦労をなめ尽くしました……笑顔など、どこから来るというのでしょう」


先生は後に、人から聞いた。お母さんは口ぐせのように言っていたよと。「いったん送り出したら最後、二度と戻れないと知っていたら、なにがなんでも、あの子を行かせたりはしなかった!」

先生の目に涙があふれた。

「この短い言葉の中に、どれほどの辛酸が、どれほどの悲しみがこもっていたことか!

どれほど多くの昼を夜を、母は、遠くを見つめながら、息子が帰ってくる日を待っていたことか!」


しかし、青年は他人に身を寄せており、経済的に自立していない。早く一人前になって、親孝行したかった。「お母さん、苦労をさせましたね。もう、これからは何も心配はいりません」。そう言って、喜ばせたかった。

一度も笑ったことのないお母さん。これからは、毎日、笑って暮らしましょう。「赤いもの」しか食べたことのないお母さん。これからは、おいしいものを食べましょう。

青年は、その日を夢見た。もうすぐだ。もう少しで卒業だ。


しかし――。ある日、訃報が届いた。お母さんは、大学を卒業する前に亡くなってしまったのである。急いで北京を発った。

故郷へ向かう長い長い道――。「母が最期に、愛する息子を思う様子を想像することは耐えられなかった。それを思うと、私の胸は張り裂けそうになり、涙がふきこぼれた」。8年も会っていなかった。

「母の棺おけを見、そまつな家を見て、私は棺おけに頭をぶつけて母の後を追おうとさえ思った。私は後悔している。本当に、後悔している。私は絶対に母のもとを離れるべきでなかったのだ!」


先生は、世界的名声を得た後になっても、このことを「わが永遠の後悔」と呼んでおられる。

「この世のどんな名誉も、地位も、幸福も、高貴も、母のそばにいることにはかなわない。たとえ一字も読めない母であったとしても。『赤いもの』ばかり食べている母であったとしても。これが私の『永遠の後悔』である」

そう書かれたのは、先生が82歳の時であった。お母さんを送ってから60年がたっていた。

生かし育てる「天の心」

私は、このほど、季先生との対談集『東洋の智慧を語る』を上梓できた(東洋哲学研究所刊)。

これには蒋忠新先生も加わっていただき、3人の「てい談」となった。蒋忠新先生は季先生の教え子で、法華経写本の高名な研究家であられた。痛恨のことに、今月の7日、ご病気で亡くなられた。蒋先生は、てい談に全力を注いでくださった。ありがたいお心であった。深き情愛の先生であられた。博学の先生であられた。誠実一路の先生であられた。謹んで、この一書を蒋先生に捧げたい。


対談集の焦点のひとつは、東洋思想の根底に流れる「天人合一」の思潮である。「天」については古来、幾多の解釈があるが、季羨林先生は端的に「大自然」と解してよいでしょうと言われた。

大自然と人間は一体であるゆえに、<自然を征服する>文明ではなく、<自然を友とし、共生する>文明に変わらねばならないと力説されたのである。そして、天の心を我が心として生きる人生こそ最高の人生であると。


先生の言々句々は、机上の痩せた理屈ではない。

学問の分厚い奥行きとともに、「一枚の葉にも宇宙を観」「天地の歌に耳を傾ける」精神性の裏づけがある。知性と感性とが熔けあって、硬い信念の合金を造り上げている感がある。


語らいの詳細は対談集にゆずるとして、今、私は思う。

「天人合一」、その思想もまた<母の心を忘れるな>、天という大自然の<母の慈愛>を忘れないで生きよと教えているのではないかと。

古言にいわく「天地の大徳を生という」(易経)。

天地・宇宙は万物を生み、育て、生かそう生かそうとしている。その大いなる徳こそが「天地の心」である。

わが恩師・戸田城聖先生も「宇宙の運行そのものが慈悲である」と言われていた。


中国思想の二大潮流は「儒教」と「道教」だが、儒教では「仁」を説き、道教が挙げる三宝の第一は「慈(慈しみ)」である。

「仁」は「二人の人」を表し、人と人を結ぶ徳が仁である――など諸説ある。一説には「仁」は植物の「種」を表す。中華料理の杏仁豆腐の「杏仁」とは「杏の種」のことである。種を大事に丹精こめて育てる心。その心で、人に接するのが「仁」だという。

また「慈」は、「茲」に「心」と書く。「茲」には「草木が茂る」意味がある。草木が大地から天に向かって、すくすくと伸びていけるよう温かく見守り、育てていく心が「慈」であり、そういう心で人を愛せよと教えるのだ。

中国史を貫く「孔子の教え」も「老子の教え」も、ともに、生あるものを生かし、慈しむ道を、はっきり指し示しているのである。

忘れません!「母の心」を

「老子」には「天下に始めあり。もって天下の母となす。すでに、その母を得て、またその子を知る。すでに、その子を知りて、またその母を守る。身を没するまで、あやうからず」(第52章)とある。

宇宙の万物を生んだ根源の何か。それは「天下の母」である。この「天下の母」の心、「母」の無限の優しさを知れ。知れば、子である自分自身の尊さを知ることができる。それを知ったならば、母を大切にし、母の心に従って生きるはずだ。そうすれば一生涯、安泰なのだ――というほどの意味であろうか。


天に「母の心」があり、人の母に「天の心」がある。

母よ。天の心に一番近い母。母を忘れないとき、人は正しく生きられる。母を忘れるとき、人の心はゆがんでいく。

そして大自然という母の大恩を忘れぬかぎり、人類は正しく生きられると私は信じるのである。

慈愛―釈尊も“大衆の言葉”で語った

先生は、お母さんを亡くした後、ドイツのゲッティンゲン大学に留学された。ドイツでは、ヒトラーが政権をとっていた。そのうちに戦争が始まり、帰れなくなってしまった。10年もの滞独となった。

ドイツの敗色が濃くなるにつれて、連合軍による爆撃が続き、食料の配給も激減してきた。飢えに苦しみ、寒さに苦しみ、死の危険と向き合いながら、それでも青年は本を手から離さなかった。

季先生は、仏教学者のヴァルトシュミット教授、ジーク教授に師事し、サンスクリット語、パーリ語、トカラ語などを学ばれた。


先生の独創は、「仏教経典の言語」の研究を通して、仏教史の解明を進めたことである。

先生は、「法華経」は釈尊自身が使った「半マガダ語」(インド東部の一方言)等を反映しており、マガダ国など釈尊が活動したインド東部が発祥地であるとされた。

経典が成立した時期は紀元前1、2世紀。そして、法華経には多くの写本があるが、写本が古いほど「方言や俗語の要素」が多く、新しい写本ほど「サンスクリット語の要素」が増えるという。

先生によると、本来、釈尊は弟子たちに、方言や俗語をはじめ<一般大衆の言葉>で語りなさいと指導した。エリートの言葉であるサンスクリット語を使うことに猛反対したというのである。


それは当時の権威・バラモン教への大胆な挑戦であり、民衆のために、民衆の中で、民衆とともに語れという慈愛の大音声であった。

日蓮大聖人も、気どった言葉をやめて「田舎の言葉で話しなさい!」と手厳しく弟子に教えられた。「但いなかことばにてあるべし」と(御書1268ページ)。

季先生は「仏教の『大慈大悲』の思想は、中国の『天人合一』の思想と一致します! これこそが、人類を危機から救う重要な思想です」と言われていた。

子の勝利は母の勝利

あの荒涼たる清朝末期から、この21世紀まで、動乱の中国史を生き抜き、生き抜いてこられた季羨林先生。

 先生は毎朝、4時半に起床。そして大学に行く前に、必ず執筆活動をする。これを50年間続けておられるという。その後は、大学の職務をはじめ、さまざまな雑事や会議があり、人とも会わねばならないからである。

「私は80歳をすぎて、ダッシュしました。反響を呼んだほとんどの著作は、80歳を過ぎて書いたものです。120歳まで生きようと思っています!」


――天行は健なり。君子、もって自彊して息まず(易経)

(天の運行は健やかで、休むことがない。善き人間も、天に習って、やむことなく努力し続けるのだ)

前へ進み、進み抜く心。それが「天人合一」の心であろうか。

その戦いこそが、あの「母の大恩」に応える道であろうか。


私は対談で先生に申し上げた。

「先生が、国家と人類のために偉大なる貢献をされているお姿を、お母様が、どれほど喜んでおられることでしょうか。先生が、波乱の人生の山坂を越えてこられた陰で、お母様がいつも見守り、先生を護ってこられたのではないでしょうか。季先生の勝利は、お母様の勝利です。偉大なお母様は、先生とともに勝利なされたのです。見事に勝たれたのです。きっと今、お母様は笑っておられます。晴れ晴れと笑っておられます。私は、そう信じます!」

トップへ戻る
ホーム出版物創立者の「文明間対話」シリーズ東洋の智慧を語る