ホームSearch Results学問の小径2.「仏教の社会思想化」

2.「仏教の社会思想化」

仏教の社会思想化

松岡幹夫(東洋哲学研究所研究員)

五年程前、私は十数年ぶりに大学院に戻り、社会科学のコースに籍を置く身となった。その間、日蓮正宗の僧として日常の法務に追われつつ、自派の宗門史や宗学の研究を志していたが、教団仏教特有の形骸化に抗議し宗派離脱をしてからは、社会の中で仏教を広める喜びと困難さを味わう日々であった。私の学問的関心も、いつしか仏教の社会思想化というテーマに向けられ、三十代半ばにして再び大学院生となったのである。

周知のように、キリスト教等と比較して、仏教には社会思想・倫理の面が弱いとの指摘がある。「社会」の概念自体が仏教にないわけだから、「仏教の社会思想」は、厳密な意味で学問研究の対象たり得ない。また一口に仏教思想と言っても、梵文や漢訳の仏典から日本仏教の諸史料に至るまで、そのテキストは膨大な分量にのぼり、到底一人の研究者の手に負えるものではない。思案のあげく、すでに一定の評価を得ている近代日本の哲学者たち――西田幾多郎、和辻哲郎、田辺元等々――が、仏教思想と西洋哲学とを理論的に架橋しようと苦闘したことに想到し、彼らの業績から、仏教の社会思想化の手がかりを得ようと考えた。

しかしながら研究を進めていくうちに、西田や和辻らは、西洋の〈有〉の思想への対抗理論として〈無〉の原理を高唱したために、その社会思想的展開にあたっては、致命的な問題を抱えていることを知った。例えば、西田哲学においては現実の矛盾を絶対無の直観によって観想的に解消するという方法論上の問題、和辻倫理学では絶対空の原理の下に個の存在性を根本的に否定するという問題、などが挙げられよう。

かくして現在、私は、仏教的無の原理を基盤としながら〈有〉の原理も包含し、歴史性を強く有する日蓮の思想の中に仏教の社会思想化への可能性を見出しており、近代日蓮主義の社会思想の研究に手を染めている。研究すべき対象は足下にあったわけだが、紆余曲折は、私の問題意識を対自化するうえで、貴重な経験となっている。

(『東洋学術研究』2001年第2号から)
トップへ戻る
ホームSearch Results学問の小径2.「仏教の社会思想化」