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「法華経とシルクロード」展 展示会カタログから 「序論(解説)」

「法華経とシルクロード」展のカタログ(非売品)から、仏教写本について解説した「序論」を紹介する。

筆者は、M.I.ヴォロビヨヴァ=デシャトフスカヤ、E.I.クチャーノフ、L.N.メンシコフ、E.N.チョムキンの諸氏である。

1. 大シルクロード

「精神文化を高めた」道

洋の東西を結び、ユーラシア大陸の民族と国家を交流させた大シルクロードは、古代・中世と歴史上計り知れないほど重要な役割を果たした。技術と生産、芸術と文化の発展、そして知識の伝播を容易にし、東洋の偉大な諸文明の成果を融合させたのである。その中で特筆すべきは、精神文化がその極致に至るまで高められたことであろう。この広大な商業・文化のルートは、技術工芸、科学の、そして広範な宗教活動の大拠点の形成と興隆をもたらしたのであった。

6、7世紀には、3つの主要なルートが東から西に通じていた。現代の我々に唯一できることといえば、確実に隊商が通ったと思われるその大体の方向と地点を地図の上でたどることだけである。実際の1つ1つの細かな経路は、推定すらできない。気象条件は常に変化し、川や井戸は涸れるので、隊商はたえず水を求めて南から北に移動する。西方の最終目的地――地中海地域の諸都市――へ到達するには、商人たちは海路や北のステップ地帯に依存せざるをえなかった。このように、日本の沿岸や黄海から地中海に、また南ウラルからインド洋に至る、陸路海路を含めた交通の一大ネットワークが現出したのである。これが「大シルクロード」であった。

「3つの主要ルート」

考古学上の発見や典籍類によって我々は、東から西に向かうこれらの3つの主要なルートを確認することができる。陸上のルートはすべて東トルキスタンを通っていた。北のルートは、敦煌からトゥルファンに向かい、ハラシャフル、クチャを過ぎ、天山山脈、タリム盆地をぬけるとカシュガルに出る。パミール高原を越えた後、隊商たちは幾つかの経路をたどることができた。その中にはイシククル湖に通じ、ヴォルガ川下流域、ウラル地方へと続く経路もあった。また、カスピ海の北岸に沿って西に向かい、カフカス山脈、黒海沿岸を通り、そこから小アジア、ビザンティウム(現在のイスタンブール)に向かう経路もあった。

中央のルートは、敦煌からカシュガルにぬけたあと、西の方向にフェルガナ、サマルカンド、ブハラ、メルヴヘと続いていた。そこから隊商たちは、イラン、シリアを通って地中海東部に向かった。敦煌から伸びる南のルートは、ロプノールの南からタクラマカン砂漠の南の縁を通って、ホータンをぬけパミール高原のワハン地方につながっていた。ワハンから隊商たちはトカリスタン(元のクシャーナ朝バクトリア)、バーミヤン、北西インドへと至った。陸路で北西インドに着いた交易品は、そこから船積みされ、インド洋を経て地中海地域へと運ばれていった。

ソグド人の商人たちは、古代および中世初期のシルクロード貿易において重要な役割を果たした。彼らは、サマルカンドから東方に向かい、東トルキスタン、敦煌、中国、モンゴルに居留地をつくった。唐時代の長安においてソグド商人は、一定の区画の中で暮らしていた。ソグド商人は、東から西に、また西から東へと交易品をラクダの背に乗せ、ときに自分で背負って運んだのである。商人たちは、貨幣での取引きができず、物々交換になる場合も多々あった。絹とスパイス、スパイスとラピスラズリ、玉、銀の装飾・装身具、装飾・装身具とクロテンなどの毛皮、毛皮と羊毛製の敷物、敷物と高級ガラス製品、等々。

「アジアの黄金時代」と日本

古代において、海は情報、交易品、職人その他の人間が行き来すべき中立の領域とみなされていた。古くから海を往来することも、日本列島に住んでいた人たちには、それほど難しいことではなかった。彼らの船は、朝鮮(韓)半島に、中国の臨海部に、さらには渤海国(712~929)にまで航海したのである。中国や朝鮮半島の諸国家との接触は、6世紀の初めになると極めて頻繁に行われるようになった。この時期、日本人は渡来人の流入という一つの波を経験した。日本側も学生、官吏、仏僧を教育のために中国に派遣した。日本海、黄海、東シナ海は、「大シルクロード」の延長部分として機能したのである。6世紀以降、日本から西に向かう出発地点は、大阪(難波津)であり、ここは日本の海の玄関であった。

唐代に中国からもたらされた絹織物類の2つのコレクションが日本にある。法隆寺と奈良市正倉院で発見された世界最大の規模を誇るこれらの所蔵品は、日本文化におけるシルクロードのしめる重要性を示している。日本の著述家たちは「正倉院はシルクロードの終着点であり、『アジアの黄金時代』――6、7世紀――の文化の精髄である」と考える。

およそ民族というものは、常にその隣に住む民族の動向を気にかけてきた。好奇心をかき立てられ世界の驚異と不可思議な伝説に魅せられて、ますます活動性と冒険心をつのらせて、他国に出かけ、隣人であるそこの住民と交易を始めようと試みる。交易関係はまず物々交換から始まるが、双方に利益をもたらしたのである。交易のルートとして、またその結果として、大シルクロードは、社会発展の様々なレベルで人々の出会いを演出し、様々な時代と文明の中で個人を遭遇させ、彼らをブッダの偉大な教えの旗の下に1つにまとめあげた。そしてその教えは、アジアの諸民族の歴史と運命に多大な影響を及ぼしたのである。

2. 『法華経』とその他の経典

どの経典の写本が多いか

中央アジアと敦煌に残っていた各経典の写本の数を調べることによって、仏教が栄えたシルクロードの諸都市において重要視されていた経典を推定できる。写本が1カ所に集中していたという点で、敦煌は重要経典の推定に最も適した場所である。

L.N.メンシコフは、次のようなデータを算出している。

1)『金剛般若経』がロンドン、パリ、サンクトペテルブルクのコレクションをあわせると1,470写本。

2)『法華経』が450写本、または3,140断片。ロンドン、パリのコレクションだけでも2,181点、または310写本。上記各都市に第25章(観音品)の独立したテキストが100点。

3)『金光明経』が1,200断片(そして完本が約120点)。

4)『般若心経』が150点。

敦煌由来のチベット写本を見ると『大乗無量寿宗要経』が8、9世紀のチベット人社会で最も流行していたことがわかる。この経典は、アミターバ仏の極楽世界について説いた経典の正典外の異本の1つである。

東トルキスタンのオアシスで発見されたサンスクリット写本は、5世紀から9世紀にかけて、3つの経典がこの地域で流行していたことを結論づける。すなわち、『法華経』『般若経』および『五護呪』という一連の大乗・金剛乗の経典である。

この調査では、諸涅槃経典にはふれていないが、この経典は、インド、中央アジア、極東および東南アジアの諸部族、諸民族の仏教徒たちによって信奉された。

7つの東方言語に訳された『法華経』

『法華経』は、全東洋の仏教の歴史において重要な位置をしめている。その伝承は2,000年前のインドに始まり、ほどなく中央アジアと極東の諸民族の専心と崇敬を集めるようになった。7つの東方諸言語への翻訳が知られているが、そのうちの5言語の古写本が、今回の展示に収録されている。

その社会的立場はどうあれ一切衆生に真の救済を与えようというのが、『法華経』の内容である。この経典は人々に精神の自由を与え、「一仏乗」とよばれる仏の力強い救済力に対する堅固な信仰を呼び起こした。仏とは、宇宙の秩序と永遠の法則が人間存在の中に顕現したものであるという思想を『法華経』は高らかに宣言する。仏は、苦悩する一切衆生を利益するために地上に出現したのであると。『法華経』が諸民族の共感を勝ち得たのは、このような理由によるのである。

3. 大シルクロード由来の写本

「紙」以前は何に書いたか

人類は、紙が発明されるはるか以前から文字の使用を開始していた。古代において東洋の各民族は、入手が容易で、耐久性もある材料に文字を書いていた。インドでは、2つのタイプの材料が使用された。1つは、樺皮(ヒマラヤ南麓の北西インド、カシュミール)、いま1つは貝葉(北東インド、南インド)である。当研究所所蔵の最古の写本は、貝葉であり、年代は紀元1世紀である。貝葉は今日に至るまでインドで使用されている。ときに樹脂をかけてあったり、金銀を塗布した装飾が施してあったりして、1つの芸術品になっているものもある。

中央アジアにおいては、紙の出現の以前も以後も、文字は木の板や棒(木簡)、皮の上に書かれていた。板はときにかんな掛けが不十分で、それをひもで縛っていたのである。また皮のなめしもほとんどされていない。納税証明、労働者の雇用、水利、土地、建物の賃貸など、一般的に文書は木や皮に書かれていたのである。中国において最も広く利用された材料が、竹の棒や板(竹簡)であった。

「紙」「墨」の耐久性

東洋の文献史の新たな時代は、紙の発明によって始まった。中国の公式文書が残っているが、それによれば紙の発明は紀元105年となっている。蔡倫という発明者の氏名さえも分かっている。樹皮、麻、敝布(ぼろ)が紙の原料となった。このような原料は後代に至るまで使用された。分析の結果によれば、ほとんどすべての敦煌由来の紙はこれと同じ材料を組成としている。英国の化学者のグループと、大英図書館、パリ国立図書館、サンクトペテルブルクのロシア科学アカデミー東洋学研究所の修復担当者、専門家とが共同で行った最新の研究で明らかになったことは、中国の紙の製造者が使っていた植物の液には3つの化学物質が含まれており、この物質が紙に耐久性を与え、虫喰いによる破損を防いだということである。このような紙は今回の展示の一部にも見ることができる。この種の紙は、多少黄ばんでいるか、あるいは茶色がかっているが、あたかもこれらの写本がごく最近つくられたのではないかと思われるほど、保存状態は極めて良好である。

中央アジアと極東の写本は、すべて墨で書かれている。組成もほぼ同じである。耐久性に富み、水にも強い。その基本的な成分はすすである。墨の耐久性は、よく知られている。考古学者たちの発見したところによれば、1,500年以上も空気にさらされた状態の木板に書かれた文字がなお判読可能であったという。

写本の形――「ポーティ」「巻本」「折本」「冊子本」

インドの貝葉本は、通常1枚1枚を重ねて束ねてある。右と左に――ときには左にのみ――穴があり、ひもが通してあるので、1つにつながっている。貝葉の束は、2つの細い木の板で挟んであり、そのまわりをひもの端で縛ってある。この種の典籍は「ポーティ」という名称で呼ばれるようになった。この「ポーティ」がインド、中央アジア、チベット、西夏、そしてモンゴル、ブリャート、カルムイクにおける、写本の形を決定した。紙を細長く帯状に切って貝葉のような形にすることも行われた。こうして、紙製の「ポーティ」ができあがった。

伝統的な中国の写本の形式は巻本である。敦煌写本のほとんどすべてが巻本である。中国の巻本を模倣して西夏も巻本を製作した。チベット語の文書を巻本に書写したものも残っている。巻本は読もうとする人にとってかなりの努力を要した。収蔵するのは容易であるが、それを読むためには、とくに最後の部分を見たいときには、ときに30メートルの長さを巻いて開かねばならないこともある。

読む人の労力を軽減するために、巻本は後代になって縦に折れ目を入れ、折り畳んでアコーディオンのようにして使うようになった。このようにして大変便利な折本というものが出現したのである。ハラホトにおいては、漢語本、西夏本の折本がよくみられる。後に"蝶々"のように折り曲げた形(蝴蝶装)の冊子本が登場した――文字が印刷してある紙を縦に文字のある側を内側にして折り曲げ、これらの紙を折り曲げた線のところでそろえて固定するか、接着剤でくっつけて、表紙をかける。このタイプの冊子本は中国、朝鮮(韓国)、日本において広く流布した。ハラホトの西夏語の典籍では、裁断した紙を綴じて冊子本にしたものが残っている。

木版・活字――印刷技術の発達

11世紀の初頭の中央アジアと極東における仏教典籍の大多数は、木版で印刷された。まず原稿を木の板に左右を逆にして彫り、墨を塗り、特殊なローラーで押しながら紙に写し取っていった。残念ながら、誰がいつこの印刷法を発明したかは文献としては残っていない。紀元後8世紀のある一時点が最もその可能性が高いとされている。専門家によれば、最初の木版本は漢訳『金剛般若経』の版本である。9世紀中葉のもので、現在大英図書館に所蔵されている。西夏国では、書写による写本と、版本に印刷する伝統がずっと共存していた。しかしながら、仏教以外の典籍――中国の古典、法律文書その他――は多くが印刷され、仏教典籍は手書きされたと指摘するむきもある。木版本から写本に転写された例もある。

西夏は、印刷技術の発達に関して重要な革新を行った。発明自体は中国であったが、(本格的に木)活字を使用して、文書の印刷の手順を簡略化したということである。木版本はインドではついに行われなかった。インドでは印刷法はヨーロッパから伝えられた。

チベット人は、11世紀頃までに木版本の製作を始めていた。ハラホトでは、チベット語で書かれた仏教典籍や木版の曼陀羅が発見されている。頁建てや文章の割付に漢字を使用していることを考えれば、おそらく木版を実際に彫ったのは漢人だったのかもしれない。14世紀初頭、木版はチベットにおいて重要な位置をしめるようになった。当時、大蔵経――カンギュルとテンギュル――の開版が行われたのである。

13の文字、14の言語に示された「心の交流」

今回の展示における写本と木版本は、13種の文字が使用されており、それらの文字はその構造と起源から2つの大きなグループに分かれる。すなわち表音文字と表意文字である。

表音文字には、中央アジア直立ブラーフミ一文字(南トルキスタン)、中央アジア斜体ブラーフミー文字(北トルキスタン)、インド・ブラーフミー文字、カローシュティー文字、パーリ・スクエア体、ソグド文字、古ウイグル文字、満州文字、モンゴル文字、チベット文字、オイラート「清書体」があり、これらはみな、その起源はアラム文字にさかのぼる。

中央アジア・ブラーフミ一文字の各変異体も古チベット文字もインド・ブラーフミ一文字を起源とする。ソグド文字、古ウイグル文字、モンゴル文字、満州文字は、ソグド文字から順に影響を与えて連鎖的に成立していったものである。4世紀から11世紀にかけて使用された漢字のすべてと、西夏文字は、表意文字である。

これら展示されている文書に使用されている言語は、現在使われているものも、死語となったものも含めて、14言語にのぼる。1)サンスクリット語、2)プラークリット語、3)北西プラークリット・ガーンダーラ語、4)ホータン・サカ語、5)トカラ語B(クチャ語)、6)ソグド語、7)古ウイグル語、8)モンゴル語、9)オイラート語、10)満州語、11)漢語、12)西夏語、13)古チベット語、14)朝鮮(韓国)語である。

これらの文字と言語が東は奈良から、西はサマルカンド、メルヴに至る大シルクロードの一帯をしめる広大な地域に存在したのである。

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この序論の冒頭でシルクロードの役割が交易品のやりとりのみならず、ブッダの偉大な教えをも含めた心の交流の場であったと述べたが、これらの心の交流は古代、中世における世界の精神文化を大いに高めたのである。時は移り、交通の手段も様変わりした。かつてのシルクロードももはや跡をたどれないほどまでになってしまった。

しかしこの偉大な道はその重要性をいささかも失うことはない。民族と民族、国と国とを結びつける絆であり続けている。心と心をつなぐ道である。そして、ブッダの偉大な思想は、その人間性と気高さを保ちつつ、往昔のごとく、この道を旅しているのである。

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